日本で唯一の銭湯の流し 江戸っ子の背中見つめて

5月31日8時41分配信 産経新聞

 ■橘秀雪さん(71)

 ランニングシャツに色落ちした青の短パンがいつものスタイル。入浴客よりひと回り大きなピンクの風呂おけと、黄色のあかすりタオルを抱えている。

 江戸時代には「三助」と呼ばれた。もともと銭湯には客の背中を流す湯女(ゆな)と呼ばれた女性がいたが、風俗的性格が強くなったため、男性に変わった。流しや肩こりのマッサージだけでなく、湯加減調整や番台業務など3つ以上の役割があったから-といったいわれがあるという。

 今やその伝統をただ一人守っている。昭和28年春、中学卒業後の15歳で富山県氷見市から上京し、同郷の縁を頼って世話になったのが、現在の職場でもある東京都荒川区東日暮里の銭湯「斉藤湯」だった。以来、50年以上にわたって客の背中と付き合ってきた。

 「地元では長男以外、働けるところがなかったからさ。ほかの仕事なんて、考えたこともないよ」

 昭和30~40年代前半にかけて、入浴料に追加料金を払う「流し」はちょっとしたぜいたくで、大工の親方ら江戸っ子の粋な振る舞いの一つだった。チップを弾む常連客も珍しくなく、次第に「流し」専門の人が増えたという。

 「あちらこちらに待合所のようなものがあって、人手が足りないときは助っ人が呼ばれてくるほどだった。『流し』にマニュアルなんてものはないから、見習い仕事の合間を見つけて、先輩のやり方を見よう見まねで覚えていくしかなかったね」

                  ◇

 わが国で唯一の“技”を味わってみようと、入浴料450円とは別に400円を番台に支払い、「ながし 斉藤湯」と書かれた木札を受け取った。浴槽で体を温め、教えられた通りに木札を鏡に張り付けて、しばらく待つと奥の扉が開き、丸刈りの顔をニコニコさせて近づいてきた。

 「待たせたね。悪いね」

 一声掛けると、おもむろにあかすりタオルにせっけんをすり込ませ、中腰で背中や腕をこすっていく。おけにためた湯をザバーッと掛け流せば、こすられた部分が赤く変色していて、力強さが伝わってくる。

 「一昔前は木おけとヘチマのたわしを使っていたけど、手に入りにくくなったからね。あかすりタオルは便利だよ」

 続いて、マッサージ。湯で温めたタオルを肩に掛け、独特のリズムで肩や背中のつぼを押し、腕をもみほぐしていく。トン、トン。グッ、グッ。グリグリ-。体が慣れていないせいか、正直、気持ちいいというよりも痛みを感じた。

 「今の人は体が全然こっていないよね。機械仕事が増えたからさ。昔は朝から晩まで肉体労働をしてくるから、『腰が痛い』『肩をもんでくれ』『もっと強く』と一人ひとり細かい注文が飛んだもんだよ」

 ひたすら背中や肩を押し続けてきた指の先端はくぼみ、手のひらの血管は浮き立ち、全体が鬱血したように赤黒く染まっていた。

                  ◇

 自宅は斉藤湯とつながっている。風呂はない。次男の昌幸(33)は幼少のころ、3つ上の兄と毎日、斉藤湯に通った。「父はいつも見ず知らずの人の背中を洗っていて、気軽に声を掛けられる雰囲気ではなかった。父と風呂に入った記憶はないですね」

 都内の銭湯はピーク時の昭和43年には約2700軒あった。当時の家庭の浴室普及率は5割に満たなかったが、昭和の終わりには8割近くにまで上昇。銭湯から客足は遠ざかり、現在は865軒にまで落ち込んでいる。

 かつては、一人前の流しになれば、のれん分けされ、風呂屋の主人として独立するチャンスもあったが、そうした道はすでに閉ざされていた。仕事の質も大きく変わり、湯を沸かして、火加減を調整するのはボイラーに取って代わられ、「流し」ができる人も次々と消えていった。

 斉藤湯も、時代の流れには逆らえない。休日に「流し」目当てで地方から足を運ぶファンも少なくないが、平日は自宅で妻の介護をしながら、声が掛かるのを待つ時間が増えた。「今は1日4、5人。多くても10人ぐらいかな」。にこやかな笑顔の奥にさびしさがのぞいた。

 パンッ、パパン、パンッ-。手のひらをくぼませ、背中を数回たたく音が浴場に響き渡ると、終了の合図。「いいですか」。最後まで優しい語り口にこちらの表情も自然と緩んだ。

 斉藤湯3代目の斉藤勝輝(64)は言う。「体力が続く限り、続けてほしい。それまではこちらも頑張りたい。『流し』が終わるときは、この店を終えることを考えないといけないだろうね」(敬称略、伊藤真呂武)

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