1月6日8時1分配信 産経新聞
■稚児が弓矢で“邪鬼”射抜く
宮城県北に位置する涌谷町の箟岳(ののだけ)山。標高232メートルと高い山ではないが、山頂からの眺めがいい。田園地帯が広がり、北に栗駒山、西に船形山などの山々を望み、県北一帯を見渡せる。
その山頂にはスギが鬱蒼(うっそう)と茂り、その中に箟峯(こんぽう)寺の本堂、観音堂が建つ。
観音堂は征夷大将軍、坂上田村麻呂に由来する。約1200年前、田村麻呂が蝦夷(えみし)征伐の時、観音堂を建立、京都清水寺の十一面観音を勧請したと伝えられる。その後、比叡山延暦寺の慈覚大師(円仁)が中興し、それまでの法相宗霧岳山正福寺から無夷山箟峯寺と改め、天台宗の寺となった。
箟峯寺の佐々木了章住職(70)が、頭から角を生やした鬼のような絵が描かれたお札を示しながら説明する。絵は平安時代の比叡山の高僧、良源の姿という。良源の命日にあたる1月3日は「元三会(がんざんえ)」が行われ、農作物の作柄を占う「作だめし」がある。良源はおみくじの祖といわれ、読経などの後、クジを引いて作柄を占う。お札の“鬼”の絵には邪鬼を払う力があるように見えた。
同寺の正月行事は鬼に関係が深い。1月3日夜は鬼を追い払う「鬼やらい」が行われる。本堂では住職がゴオウドウシと呼ばれる栗の木で作ったものを床に落とす音を合図に、僧たちがアズサの木で廊下の床をたたき、掛け声とともに木を外にほうり出す。
「地域の災いとなる田んぼの病害虫や流行(はや)り病など『悪いもの』を『鬼』とし、これらを払うのです」と佐々木住職。
「鬼やらい」の後も「鬼」の行事がある。本堂の外に捨てたアズサの木を弓に使い、矢で的を射て天候を占う「御弓(おゆみ)神事」。神事は神仏習合に基づいており、1月25日(現在は第4日曜日)に本堂近くの白山堂の前で行われる。「鬼」の字が書かれた的を僧の介添えで稚児が弓矢で射る。12カ月に見立てて12本(閏年は13本)の矢を射て、天候や作柄を占う。白山は農村が広がるこの地方で農作物の「作神様」として信仰を集めてきた。
「ここでも鬼、すなわち悪いものを射抜くのです」と佐々木住職。
箟岳から望める地方に生まれ育った者としては、厄災をもたらす鬼のほかに、箟岳にはもうひとつの鬼のイメージがある。
征夷大将軍の坂上田村麻呂。この田村麻呂についてはさまざまな伝説が残っているが、鬼退治はそのひとつだ。
箟岳から北西に約50キロの宮城県大崎市鳴子温泉の鬼首(おにこうべ)。この鬼のついた地名は田村麻呂の鬼退治に由来するという伝説がある。田村麻呂が鬼を退治し、切り落とした首が箟岳から飛んで落ちた地が鬼首と呼ばれるようになった-。この話は小さいころ大人から聞かされ、鬼の首が「怖い顔」のまま遠く鬼首まで飛んでいったのだろうと想像し、しばらく信じ込んでいた。地元に根強く残る伝説だ。
こうした伝説には、かつて岩手、宮城で活動した座頭と呼ばれる盲目の芸人が弾き語った奥浄瑠璃「田村三代記」の影響が大きいとされる。テレビなどがない時代、こうした芸能は庶民の娯楽だった。だが東北芸術工科大学の内藤正敏教授は「娯楽だけでなく鎮魂の意味もあった」と指摘する。
座頭の姿はいまはなく、言葉だけが地元に残る。鬼の伝説に遠い昔の東北、蝦夷へ思いをはせながら箟岳を下りた。
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奥浄瑠璃「田村三代記」では坂上田村麻呂が田村丸として登場する。仁明天皇の時、天竺(てんじく)の魔王の娘が日本を覆そうと図っていた。天皇は田村丸にこの女の討伐を命じるが、討つことができず、逆に口説かれて、契りを結ぶ。田村丸は女の助力で悪者を退治。これを知った奥州の鬼神、大嶽丸は女を奥州に連れ去る。女の導きで田村丸らは大嶽丸がこもった箟嶽(岳)山に向かい、4振の剣を大嶽丸に投げ観音に祈ると、大嶽丸の体を4つに裂いた。首は奥州と出羽の境に飛んでいき、落ちた所が鬼首と呼ばれるようになったという。東北芸術工科大学の内藤正敏教授は「暴れ回る鬼の方がおもしろく、主役になっている。豊かな想像力を感じる」としている。(石崎慶一)