1月10日13時17分配信 産経新聞
日本一有名な大泥棒、石川五右衛門。「釜ゆでの刑」で知られ、「五右衛門風呂」などの言葉にも名残があるなじみのキャラクターだが、その生涯はよくわかっていない。生まれた場所ですら、伊賀(三重県西部)や遠江浜松(浜松市)、丹後、河内など諸説ある。
阿部猛著「盗賊の日本史」(同成社)によると、五右衛門は30~40人ほどの手下を持ち、伏見城下に立派な屋敷を構えていたという。手下にはやりや長刀(なぎなた)、弓、鉄砲を担がせて街道を往来させ、夜の京や伏見で盗みを働いた。同書では「戦国以来の在地土豪、小領主、あるいは蜂須賀小六のごとき野盗、野伏の頭領というべきものだった」と指摘されている。
時の権力者、豊臣秀吉は、後の「五奉行」の1人、前田玄以に、五右衛門ら一味を捕まえるように命じたとされる。
大泥棒五右衛門がどのように御用となったのか、そこにもまた諸説ある。「木村常陸介に頼まれて秀吉の暗殺を企て、秀吉の寝所に忍びこんだとき、宿直(とのい)の足を踏んで捕まった」とする説、「千鳥の香炉を盗んだところ、その香炉が鳴いたために捕まった」とするユーモラスな説もある。
いずれにしても五右衛門は最後には捕らえられ、牢獄へとほうり込まれた。
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五右衛門の墓がある「大雲院」(京都市東山区)の佐藤善穣住職によると、かつては河原町六条(同市下京区)のあたりに牢獄があり、捕らえられた五右衛門は、寺町通りを北へ上がって三条河原(同市中京区)の処刑場まで連れていかれたと伝えられている。
当時の大雲院は、その中間点近くの四条寺町にあり、大雲院を開いた貞安上人は、処刑場に連れられていく五右衛門と会い、仏法をかけた。すると五右衛門は感泣して、自分を弔ってほしいと願い出たという。
「盗賊の日本史」によると、寺町通りを引き回された希代の大泥棒の姿を一目見ようと、沿道には大勢の見物人が集まった。その群衆の中から突然、25歳ぐらいの若者が走り出てきて、五右衛門を引き連れて歩く縄取りの男を一刀のもとに切り捨て、こう叫んだという。
「いかに五右衛門殿、日頃の芳情に報ゆる寸志は御覧の通りである」。男は人込みの中を駆け抜け、どこかへと姿を消した。
三条河原に連れて来られた五右衛門は、油を張った釜に入れられ、煮殺しにされた。山科言経の日記「言経卿記」によると、盗人・スリ10人と子供1人は釜で煮られ、同類19人は磔(はりつけ)にされたという。一説では文禄3(1594)年のことで、五右衛門は37歳だった。
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センセーショナルな処刑方法が話題を呼び、五右衛門は江戸期になると浄瑠璃や歌舞伎に義賊として登場し、広く民衆に人気を集めるようになる。歌舞伎「金門五山桐」で「絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千金とは小せえ、ちいせえ」と南禅寺の三門でミエを切る場面は、特に有名だ。
処刑後の五右衛門につけられた戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」。寺や社会に貢献したり、信仰の厚い人に付けられたものだが、盗賊の五右衛門になぜそのような格式の高い戒名がつけられたのかは、よくわからないという。
大雲院に五右衛門の墓が建てられたのは、処刑から35年ほどたってからのことだった。 (長谷川陽子)
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石川五右衛門 豊臣政権期に京都で活動した盗賊で、正確な生没年は不詳で生い立ちなどは謎に包まれている。江戸期には歌舞伎や浄瑠璃で義賊として登場し、広く庶民に人気を得た。京都府内では、与謝野町の旧野田川町域に中世の摂関家渡領荘園・石川荘がかつてあり、石川氏が存在したことから出身地とする説もある。