【大空にかけた青春-予科練の群像】(54)磐梯熱海

12月14日8時4分配信 産経新聞

 「片足を失い、これで命は助かったと思った。いずれ特攻隊員として死ぬ運命にあると思っていたが、敵艦に体当たりしなくても済むかもしれないと期待を抱いた」

 霞ケ浦海軍航空隊(阿見町)の飛行練習生(飛練、甲種13期)の濱田外夫(80)=茨城県つくば市大白硲在住=は当時の心境を率直に述べた。

 「死の覚悟はあったが、心の片隅のどこかには命を惜しむ気持ちがあった。ただ、戦傷は名誉の負傷で、お国のために身命をささげたという強い自負心もあった」

 濱田は結果的に両足を負傷し、霞ケ浦海軍病院に入院後、傷病兵の療養のため海軍が接収した磐梯(ばんだい)熱海温泉(福島県郡山市)の旅館「一力」で療養に入った。

 「旅館には軍医や衛生兵、看護婦が常駐していたが、抗生物質などはなかったので、療養といっても担架ごと温泉に浸かるだけだった」

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 磐梯熱海の由来によると、源頼朝の奥羽征伐後の文治5(1189)年、陸奥(現・福島県)安積郡の領主となった伊東氏が出身地の伊豆をしのび、この地を「熱海」と命名した。海がないのに熱海の地名が残されているのは、伊豆の熱海と同じく、豊富な温泉がわき出ていたことによる。

 こんな伝説もある。建武年間(1334-1337年)、京(みやこ)に住む公卿(くぎよう)、万里小路重房の娘で「萩姫」という評判の京美人が難病にかかった。ある夜、侍女の枕元に不動明王が現れ、「都をさる東北方、鴨川から数えて500本目の川岸に霊泉があり。それに浴すれば必ずや全快」とお告げがあった。

 萩姫は侍女に付き添われ、陸奥へと旅立った。幾多の困難の末、95日目に500本目の川にたどり着いた。磐梯熱海温泉地内を流れる五百川だ。ここのお湯のおかげで約2年で難病が全快し、通りかかった南朝の武将、北畠顕家に付き添われて京に戻ったという。

 温泉郷には27軒の旅館やホテルが建ち並ぶ。「一力」は大正7年5月創業の老舗旅館だ。萩姫伝説で知られる名湯は素肌に優しい“美人の湯”と評判だ。

 同旅館の常務、佐藤重春(65)は「うちは平成6年に全面改築したので当時の面影はないが、昔の建物は池のそばにせり出していたので、戦時中の傷病者は水音の流れを覚えているのではないでしょうか」と話している。

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 濱田が両親に内緒で志願した甲種13期の受験資格は中学3年在学以上で、年齢は昭和3年11月30日以前に生まれた者と制限されていた。11月29日生まれの濱田はぎりぎりで資格をクリア。入隊後、年齢や一回りも体格が異なる同期の練習生との訓練はさすがに応えた。

 一方、磐梯熱海での療養中は空襲警報に悩まされることもなく、濱田は「戦時下であることさえ忘れてしまいそうな静かな日々だった。一力での看護の手厚さから、海軍は私をまだ使うつもりでいるのかと思った」という。

 体力が次第に回復するにつれ、濱田は自由に手足を動かせないことにいらだちと苦痛を感じ始めていた。抜糸を終え、一力での療養も2カ月たった8月10日、霞ケ浦病院に戻された。=敬称略(倉田耕一)

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