12月24日17時0分配信 夕刊フジ
夫で反戦運動家の金子徳好さんが亡くなった昨年11月26日からほぼ1年後。あとを追うように息を引き取った。長男で、「ガメラ」や「デスノート」シリーズで知られる映画監督の金子修介さん(53)は「迷信じみたことは信じないが、仲のよい夫婦でしたから、そんな(あとを追った)感じもします」と話す。
武蔵野美術大学を卒業後、刺繍(ししゅう)のデザインや絵本の挿絵の仕事をしながら趣味で貼り絵を始めた。和紙を重ねた貼り絵から、やがて「影絵にインスパイアされたと思われる」(金子監督)切り絵に。黒い線の部分がすべてつながった1枚の紙から作ることにこだわったり、それにこだわらなくなったり、貼り絵と合わせたり、カラフルになったり…。金子監督は物心ついたころから母の作品が変化していく過程をつぶさに見てきた。
兵庫県尼崎市で生まれ、幼いころは中国の天津、小学生時代は東京・原宿で過ごした。戦時中は調布の中島飛行場で戦闘機の部品作りに動員された。戦後は大杉栄の妹の家に下宿。同じ初台の大工の末っ子だった夫とは共産党の活動で出会った。1990年代には夫婦でピースボートに乗って世界を旅し、各地を題材にした切り絵もたくさん残っている。
金子監督は「子供のころ、父と母が家でキスしているのを当たり前に見ていましたが、それを学校で話すとみんなにビックリされた」と、おしどり夫婦ぶりを明かす。
家族で東京・三鷹に住んでいたころ、外より家で飲むことを好んだ父が「うちは三鷹温泉だ。美人を前に飲んで、ご飯を食べて、あとは寝ればいい」とはしゃぐかたわらで、母は恥ずかしがっていたという。
読書家でもあった。トルストイなど西洋の名作について子供たちによく話していた。ただ、金子監督が描いたマンガや書いた物語に対しては「感想などは言わなかった。自分も絵を描いているから、逆に干渉はしなかった」という。金子監督の撮った映画についても論評することはなかったが、葬儀で会った大学の同級生から「君の映画、お母さんに推薦されて見に行ったよ」と声をかけられ、金子監督は母の意外な一面に触れた。
「『怖いのは嫌よ』と言っていたけど、デスノートは見たのかな」
病床のノートには「来年は人生80年個展を開きたい」と果たせなかった夢とともに、「プライドはオペラの話」と、来年1月に公開される息子の映画について記されていたという。