被災者が体験談 阪神大震災から14年(和歌山)

1月17日17時12分配信 紀伊民報

 6434人が亡くなった阪神大震災から14年を迎えた17日、和歌山県南部の沿岸部では防災訓練が行われた。東南海・南海地震への備えが問われる中、紀南地方に住む当時の被災者から体験談を聞いた。
■住民の力は大きい 田辺市消防本部、村上朝博さん(35)
 当時大学3年生で、神戸市中央区のアパートで寝ていた。揺れは激しく長く感じた。心配しているだろうと思い、田辺市上屋敷の実家に公衆電話で無事を伝えた。
 明るくなってから外へ出ると、倒壊した家が目に入り、遠くでは煙が上がっていた。
 三宮駅まで歩いた。途中、男性が誰か来てくれと声を上げていた。「ここにおばあちゃんがおるんや」。1階部分がつぶれた民家だった。
 家族なのか近所の人なのか、集まった十数人と協力して家具を取り出すと、姿が見えた。「大丈夫か」「ああ」
 市消防本部の警防室で働くいま、この経験が生きる。行政でできる限りのことはする。けれども、大きな災害時では住民の力は大きい。消防だけでなく、地域の町内会などいろんなところが機能してこそ防災だと思う。
■人のつながりを大切に 田辺市総務課、那須仁さん(36)
 神戸大学の学生で神戸市灘区の木造アパート2階で暮らしていた。その日午前5時すぎに起き、こたつで新聞を読んでいた。青白い光が窓の外に光った後、アパートが持ち上がり、舟揺れのように揺れた。部屋の中は家財道具が散乱したが、けがはなかった。
 アパートの1階部分がつぶれ、死者が出た。薄明かりの外は映画で見た戦場のような街の情景だった。
 近所の住民は各自で救助活動を始めた。食べ物を求めて並んだ店は3時間の行列。夜は開放された市バスの車庫に泊まり、翌朝3時間歩いて阪急西宮北口駅から田辺市下屋敷町の実家に帰った。
 いざという時は住民のつながりの深さが大事だと痛感した。防災対策で訴えたいことだ。身一つで市役所に駆け付ける覚悟はできている。
■万一に備え持ち出せる袋を 白浜町堅田、山下美知子さん(79)
 その日、60センチほど離してあった夫婦のベッド同士がぶつかるほどの衝撃で起こされた。西宮市内の自宅2階の窓から隣の2階建ての家がぺしゃんこになっているのが見えた。
 水道が復旧するまで風呂を我慢した。10日間入らなかったこともある。顔を洗うのも目の周りだけにした。浄化槽に板を渡し、周りを囲ったトイレを1カ月以上使った。
 半壊といっても住める状態ではなかった。気に入った家だったので夫婦でこつこつ修理したが、コンクリート基礎に大きなひび割れがあるのを見つけ、あきらめた。約1年暮らした後、実家のある白浜町に戻り、家を建てた。
 白浜に来てからは、万一に備え、玄関に水を入れたペットボトルと懐中電灯を、枕元に大事なものを放り込める大きな袋を常に置いている。

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