12月16日14時1分配信 毎日新聞
◇生きた証し、永遠に--神戸・東遊園地
阪神大震災から14年となるのを前に、神戸市中央区・東遊園地にある「慰霊と復興のモニュメント」に14日、名前が追加された17人。市外の犠牲者や、震災が遠因で亡くなった人も含まれている。遺族らは1人ずつ銘板を張って「生きた証し」を刻み、花と黙とうをささげた。
大阪市淀川区の村上嘉代子さん(65)は、西宮市の実家に住んでいた父柏原数元さん(当時77歳)と弟靖史さん(同41歳)、弟の息子でおいの雄也君(同11歳)の3人を亡くした。木造2階建ての実家は震災で全壊。3人は下敷きになった。当日の夕方、村上さんが病院に駆けつけると、母ツルミさん(89)=西宮市=が遺体の前で泣き崩れていた。
村上さんは昨年、神戸ルミナリエを見ようと東遊園地を訪れた際、神戸市民以外でも銘板を取り付けられることを知った。ツルミさんは「神戸市民ではないのに」と反対したが、「3人が忘れられないように」と説得した。
「ここに名前を刻むことで、私たちが死んでからもずっと、多くの方に3人のことを見守ってもらえると思う」と村上さん。この日は夫(72)や娘夫婦、孫など8人で参加し、3人の銘板を取り付けた。来年の1月17日は西宮市立高木小学校での追悼行事に参加した後、東遊園地を訪れるつもりだ。
神戸市垂水区の柳川オトさん(85)は、妹アキさん(当時68歳)の名前を取り付けた。アキさんは住んでいた同市中央区の文化住宅が全壊。避難先の小学校で倒れ、震災1カ月後に亡くなった。若いころから糖尿病を患っていた妹の体を心配した柳川さんが、姫路にアパートを手配し、引っ越す直前だった。
アキさんは就職や結婚はせず、両親をみとってから、たった1人の姉を頼って神戸に出てきた。柳川さんは「親孝行な子だった。神戸では友人と温泉に行ったり、やっと楽しい時間ができたのに、ふびんで仕方がない」と涙をぬぐった。この日初めてモニュメントを訪れた柳川さんは「良かったね」と改めて妹に語りかけた。
◇「ここに名前を刻むことで、ずっと見守ってもらえる」 遺族の思い…ひと言
新たに銘板に名前が刻まれた方々の遺族から話を聞いた。(犠牲者の年齢はいずれも当時)
加古川市の仮設住宅で96年10月に病死した渕上静恵さん(80)の長女、津田久子さん(69)=神戸市長田区 「神戸が大好き」が口癖だった母を神戸に帰らせてあげたかった。これでいつでも見に来られる。母もきっと喜んでいると思う。
復興工事で神戸に単身赴任し、95年3月にくも膜下出血で亡くなった津田紘さん(51)の妻、弘子さん(62)=大阪府和泉市 やっと震災で亡くなった皆さんの中の1人になれた。未明から深夜まで働いていたが、ぐちは言わなかった。
姫路市の病院に転院し、95年1月に心筋梗塞(こうそく)で急死した牧田加納太郎さん(87)の孫、杉原留美子さん(51)=神戸市北区 震災で疲労がたまっていたのだろう。家族が駆け付けたが、最期をみとれず、ずっと心残りだった。
神戸市西区の仮設住宅で転倒し骨折、入退院を繰り返して05年に亡くなった関本はまえさん(90)の息子、欣吾さん(65)=加古川市 98年4月に亡くなった父(幸三郎さん)の名を2年前に銘板にしたので、いつか一緒にと考えていた。
95年12月、芦屋市で復興工事のトラックにはねられ死亡した江草信男さん(61)の妻、悦子さん(72)=西宮市 震災の話はつらくてできなかったが、孫たちに語り継ごうと思った。やっと一歩踏み出せた。
◇ルミナリエ、閉幕 「来年以降も」開催願い100円募金
15日に閉幕した「神戸ルミナリエ」(神戸市中央区)の会場では、震災から生まれた歌「しあわせ運べるように」が流れ、警備員たちの敬礼と共に明かりが消されると、来場者から拍手がわき起こった。
会場の旧居留地の街頭募金や東遊園地の光の記念堂「カッサ・アルモニカ」では、来年以降も継続開催されることを願う大勢の来場者が100円募金の呼びかけに応じていた。
募金ボランティアをしていた尼崎市の大学1年、川辺寛規さん(18)は「今まで3回ほどルミナリエを見に来た。光の一つ一つに犠牲者の思いが詰まっているような気がする。亡くなった人のためにも続けてほしい」と話していた。【高山梓】
〔神戸版〕