医療過疎:/7 ハンセン病療養所 /群馬

1月10日15時1分配信 毎日新聞

 ◇最期に寄り添う場
 棚が向かい合う部屋に、緑色のぶ厚いカルテが何冊も並んでいる。中には15センチを超えるものも。数十年に及ぶ歳月が、そこに刻まれている。
 雪深い草津町のはずれにたたずむ国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園」。73万平方メートル、東京ドーム16個分の広大な敷地に、元患者163人がひっそりと暮らす。園内には内科や皮膚科、歯科の診療科があり、眼科や耳鼻科などは非常勤医師が定期的に診療する。
 治療棟のほかリハビリ病棟や、介護ケアを行う第1病棟、疾患を持つ人のための第2病棟があり、CT(コンピューター断層撮影装置)も備える。平均入所年数60年、平均年齢80歳を超す元患者に対する療養が、日々続けられている。
 国の元患者に対する強制隔離政策の根拠となった「らい予防法」が96年に廃止。代わって成立した「らい予防法廃止法」は、全国13カ所の療養所内で元患者を生涯、療養することを保障した。かつて1300人以上が暮らしたが、高齢化で空き部屋が目立つようになった楽泉園に、今も常勤医5人が残るのはそのためだ。
 常勤医の定数9人を満たさないことに不満の声もあるが、療養は目や手足のつめに残る障害に対するケアがほとんどで、診察を受ける人は1日数人。雑談するだけの人もいる。午後にはほとんどの医師の手が空く。
 当然ながら症例は少ない。冬の気候や周囲の環境も都会とは異なる上、給与も低めに設定されている。根気強く診療する医師がいる一方で、専門医を目指す若い医師にとって、魅力的とは言い難い施設だ。
 それでも、97年から診療を続ける東正明園長(60)は「ここでの医療とは、主に話し相手になること。人とのコミュニケーションこそ、医師の原点だ」と語る。
 園は高齢化の波にもまれている。08年、療養所の開放を可能にするハンセン病問題基本法の成立を受け、入園者自治会(藤田三四郎会長)は、園の存続に向け、一般向けの温泉療養施設の設置構想を打ち出した。「草津温泉を利用した珍しい施設ができれば、園の存続と医師の確保につながる」と期待するが、実現への道のりは険しく、園の将来像は不透明だ。
 東園長は、苛烈(かれつ)な歴史を自らの人生に刻み込んだ何人もの元患者をみとってきた。「静かに余生を送りたいと願う人もいる。最期に寄り添うことも重要な仕事なんです」=つづく

ベコ物語:’09ふくしま/9 飼料 コストと栄養を追求 /福島

1月10日13時1分配信 毎日新聞

 ◇「循環資源」と「エコフィード」に活路
 天栄村牧之内にある飼料製造業「バイオワークス」(本社・福島市)の工場。山盛りに積まれたおからを従業員がブルドーザーですくい上げると、巨大なミキサーに次々と投入していった。
 牧草やトウモロコシなどを主原料に、おからのほか、ビールや麦茶の搾りかすなども配合した同社独自のTMR(総合混合飼料)。主に乳牛の飼料として生産され、昨年から和牛用の生産も始まった。月産700トンは乳牛約800頭分の餌に相当する。紺野均社長(59)は「おからは栄養価が高く、捨てるのはもったいない。食いつきが良くなったと、農家の評判もまずまず」と話した。
 紺野さんは96年7月、知人の浅岡芳樹さんらと同社を設立した。「日東紡」富久山事業所(郡山市)に勤めていた浅岡さんは、子会社の食品メーカーから出るおからの堆肥(たいひ)利用を進めていた。「環境問題に取り組もう」と話す浅岡さんの熱意に打たれ、紺野さんは共同事業を始めたが、1年目の堆肥売り上げは約200万円で、人件費もまかなえず赤字を自腹で補てんした。
 翌97年3月、浅岡さんが工場で倒れ、急死。会社解散を決意したが、告別式で浅岡さんの妻から「何とか主人の遺志を継いでほしい」と懇願された。おからの高たんぱくを生かし、乳牛用飼料に活路を求めた。
 酪農家は朝夕、トウモロコシや大豆などを混ぜ合わせて飼料を作る。高齢化が進む農家には重労働だった。「袋を開ければすぐ牛に与えられる飼料商品があれば」。保存がきき、牛の好む甘酸っぱさを求め、乳酸菌発酵の製法を導入した。
 「安価で栄養ある飼料」を追求し、本宮市のアサヒビール工場から麦芽の搾りかす、栃木県那須塩原市のカゴメ工場からは麦茶の搾りかすを仕入れ、モヤシやしょうゆ工場からも副産物を調達した。「かすではなく『循環資源』と呼びたい。注目も高まり、やっと私たちの仕事が認められてきた」
 安達太良山を望む大玉村玉井の國分農場の國分俊作社長(59)は01年から、パンの耳やインスタントラーメンの規格外品などをリサイクルした「エコフィード」に取り組んでいる。酒かすで発酵させた飼料を交雑種の牛に与え、ブランド牛「あだたら高原酵母牛」として売り出している。
 飼料コストは通常の半分以下。発酵飼料は消化吸収が良く、肉質が柔らかく、アクや臭みが少なくなるという。近くの岳温泉の旅館で振る舞われ、最近では東山や磐梯熱海、飯坂などの各温泉地でも買い上げられている。
 國分さんが「発酵」に取り組むきっかけは84年の台風だった。家畜のふん尿が周辺に漏れ出し、行政指導も受けた。ふん尿処理のため堆肥の発酵を研究し、さらに発酵飼料の開発へと進んだ。当初は同業者から「残飯で牛を育てるのか」と変な目で見られたが、01年には独自の「コクブ式リサイクルプラント」も製造した。現在は自前の発酵飼料で、農場の牛約1000頭のほとんどを養っている。
 「同じ味の肉なら、安い方が客は満足できる。人間が食べるものだから、捨てるのはもったいない」と國分さん。人と牛の調和を目指したプラントには、「自然のゆめ」と名付けている。【蓬田正志、松本惇】

樹氷鑑賞ツアー:スタート 2月下旬~3月上旬が見ごろ--蔵王連峰・刈田岳 /宮城

1月10日12時1分配信 毎日新聞

 宮城、山形両県にまたがる蔵王連峰・刈田岳(標高1758メートル)山頂付近の標高約1600メートルの樹氷原で、今季も「樹氷」が成長し、9日から、雪上車による樹氷鑑賞ツアーがスタートした。
 樹氷は「アイスモンスター」の愛称で親しまれている自然の造形美。日本海側から吹き付ける水蒸気をたっぷりため込んだ季節風が蔵王連峰にぶつかり、氷点下の気温の中、過冷却水滴となってアオモリトドマツに付着することで誕生する。
 樹氷は現在、7~8割程度の出来で、2月下旬~3月上旬が見ごろという。ツアー開始に先立ち9日午前、雪上車の発着点となる蔵王町遠刈田温泉の「みやぎ蔵王スキー場すみかわスノーパーク」で出発式があり、関係者約50人がシーズン中の安全運行を祈願した。
 樹氷鑑賞ツアーは3月中旬まで5台の雪上車で実施する。今季は昨年より1000人多い1万4000人の鑑賞客を見込んでいる。原則として予約が必要。問い合わせはすみかわスノーパーク(電話0224・87・2610)。【豊田英夫】

年末年始のスキー・温泉場ともに健闘 観光客横ばい 群馬

1月10日8時1分配信 産経新聞

 群馬県は、年末年始の県内主要温泉地やスキー場の観光客数をまとめた。温泉地の宿泊者は20万933人で前年比0・1ポイント増の横ばい。スキー場の利用者も24万8010人で前年比0・7ポイント減とほぼ横ばいだった。景気後退の影響も懸念されたが、県は「温泉地のPR成果が現れた。今後の利用者数は伸びていくのでは」と分析。観光業界も国内外の誘客に向け、群馬の魅力の発信に力を入れている。(中村昌史)

 調査は9温泉地と23カ所のスキー場を対象に実施。温泉地全体の宿泊者数は3年ぶりに、わずかに増加。草津、水上、伊香保、四万の4大温泉地の宿泊者でみても、16万8728人で前年とほぼ同数だった。

 早期の宿泊予約は好調だったが、景況悪化などで12月にキャンセルが増え、前年並みに。団体客が落ち込む一方、リピーターや家族連れなどの利用は底堅かった。今年度は、年末年始に9連休が取れる日取りもあったことから、混雑を避け、予約を分散化する傾向が強かった。

 スキー場の利用者は2年ぶりに減少したものの、ほぼ横ばい。例年より降雪が遅れ、各スキー場のオープン延期が心配されたが、年末のまとまった積雪により大きな遅れなく始動した。

 ただ、極端な降雪で道路状況が悪く、高速道や主要道からの利便性で、利用者数に差が出た。また、雪不足の心配から他県のスキー場を選んだり、別の観光計画を立てたりするケースもあったとみられる。

 結果を受け、群馬県観光国際協会は「景気後退の影響を相当に心配したが、ほっと一安心した」とコメント。今後も状況を見据えつつ、観光客の呼び込みに力を入れる構えだ。

 同協会によると、群馬へは、交通の利便性などで埼玉県からの来客が多く、今年度は同県での現地セールスを重点化。また、大沢正明知事が中国でトップセールスを行うなど、アジア地域での「迎え入れ戦略」も継続して強化している。

 国は平成22年度までに、日本人1人あたりの国内観光旅行の宿泊日数を2・77日(18年度平均)から4日へ増やす政策を打ち出しており、同協会は「温泉や名勝、スキーなど観光資源を融合し、長期滞在者を増やしたい」としている。

市税約9億円減額へ/秦野市が見通し

1月9日22時0分配信 カナロコ

 秦野市の古谷義幸市長は九日、市役所で年頭会見を行い、二〇〇九年度の当初予算案について「現在調整している段階だが、一般会計は〇八年度当初予算四百十三億二千万円を下回ることも予測される」と述べ、厳しい財政状況での予算編成となっていることを明らかにした。

 歳入では、企業の収益悪化に伴い、法人市民税が〇八年度当初予算に比べ、約五億九千万円の大幅減となるほか、個人所得の減少傾向により、個人市民税も約五千六百万円の減となるなど市税全体で約九億円の減額を見込んでいる。

 また、国からの交付金や補助金については、自動車販売に関連する交付金などの大幅減額が見込まれるほか、道路特定財源の一般財源化に関しての新しい交付金などを含め各交付金がどれだけ見込めるか確定していない、としている。

 歳出では、クリーンセンター建設など大規模事業が本格的にスタートするほか、二年後以降には職員の大量退職による退職手当の大幅支出が見込まれるだけに「計画性を失えば、深刻な財源不足に直面する。後年度の財政運営に支障がないよう堅実な予算編成を考えている」と説明した。

 〇九年度予算編成の市長査定は十三日から始まるが、主な事業としては、実質的最終年度となる第六十一回全国植樹祭への準備、教育施設の耐震化、鶴巻温泉駅南口広場・周辺の整備などを挙げた。

ヘイ!バンブー園:地主の阿部さん急死、観光竹林の管理SOS--直方 /福岡

1月12日13時1分配信 毎日新聞

 ◇無料開放、憩いの場 遺族「維持してくれる方に」
 106種類もの珍しい竹やささがある直方市植木の観光竹林「ヘイ!バンブー園」(2100平方メートル)を毎日一人で手入れしてきた地主の阿部春鳥さん(83)=北九州市門司区=が先月中旬に亡くなり、園の管理がままならない状況になっている。遺族は「維持してくれる方にお譲りしたい」と話している。【入江直樹】
 園は10年前、直方市出身の阿部さんが父親から相続した竹林を整備し、無料開放を始めた。世界各国の珍しい種類の竹を植え、階段やテーブルも設置して来園者が憩えるようにした。春には近くの園児をタケノコ掘りに招待し、切り出した竹で作ったおはしを贈る活動も続けてきた。
 遺族によると、阿部さんは先月12日、自宅の風呂で死亡しているのが見つかった。原因は不明。当日も早朝から竹林の手入れに出掛け、体調など特に変わった様子はなかったという。
 園は現在、阿部さんが置いていた個人的な所有物などを遺族が持ち帰った以外は十分な管理がなされず、そのままの状態になっている。
 遺族は「故人の遺志を尊重し、これまで通り『開かれた竹林』として残したい。地元で保存・管理ができる個人や団体がいらっしゃれば」と話す。直方市にも寄付などについて相談しているという。
〔筑豊版〕

V間違いなし!石井、朝青龍Tシャツで大興奮

1月12日7時3分配信 スポーツニッポン

 米UFC入りが決定的な総合格闘家の石井慧(22=国士舘大)と、サッカー元日本代表の中田英寿氏(31)が進退がかかる大相撲の横綱・朝青龍のため、両国国技館に応援に駆けつけた。

 石井は胸に金色で「朝青龍」と書かれた黒いTシャツを着用。西の花道の奥で声援を送り、勝利の瞬間は「1勝して凄くうれしくて、跳び上がった」と手を叩いて大喜びした。西支度部屋では風呂から上がった横綱に声を掛けられて恐縮したが「優勝間違いなし。自分も横綱の活躍を見て頑張りたい。もの凄い気迫だった。格闘技はあれぐらいじゃないとやっていけない」と興奮した。

 一昨年、朝青龍が出場停止処分となったモンゴルでの“サッカー騒動”以来、親交がある中田氏は向正面のマス席で観戦した。「今年は日本の文化に興味を持ってみようと思って。国技館にもきたことがなかったので」と初の相撲観戦を堪能した。支度部屋では横綱を祝福。「会場が盛り上がっていた。試合内容も(横綱が)休み明けで厳しい体調でもいい結果を出して良かった。横綱は強くないとしようがないし、見せられる人間だということが分かった。友人としてよかった」と喜んでいた。

震災遺児“美容師の卵”が新成人に…亡き母に「夢」誓う

1月12日0時41分配信 読売新聞

 神戸市東灘区の銘田(めいだ)奈津紀さん(20)。母のさつきさん(当時33歳)は阪神大震災で亡くなった。一時は「頑張っても、ママのメークはできない」と無力感にさいなまれたが、家族や親友の励ましで再び前を向いて歩み始めた。「きっと夢をかなえるから見守ってね」。奈津紀さんは、天国のさつきさんに誓う。

 両親と姉の4人で暮らしていた自宅は全壊した。2階で寝ていた奈津紀さんは、タンスとふすまの間のすきまに入って助かったが、隣室のさつきさんは鏡台の下敷きになった。

 奈津紀さんは当時6歳。一緒に風呂に入ると、奈津紀さんがさつきさんの髪をとかした。しかし、癖毛の髪はいくらといても、真っすぐにはならなかった。「おっきくなったら、ママをきれいにしてあげる」。そう言うと、さつきさんはにっこり笑ってくれた。

 震災後、祖父母宅に引き取られた奈津紀さんは2007年春、大阪市の美容専門学校に進んだ。しかし、入学してすぐ「美容師になっても、ママの髪には触れられない。一番きれいにしてあげたい人がいない」と、むなしさに襲われた。学校から足が遠のき、自宅にこもった。出席数が足らず、留年が決まった。

 「学校行きや」。それとなく気遣ってくれる祖父の思いやりはうれしかったが、気持ちがついていかなかった。家族が寝静まった深夜、仏前にひとり座った。遺影のさつきさんは、いつもほほ笑んでいた。「ねえ、どうしたらいい?」。問いかけは幾夜も続いた。

 冬。家に訪ねてきた親友が、奈津紀さんの様子を見かねて口を開いた。「お母さんが生きていたら、何て言うかな」。高校時代からつきあう親友が、母の話題に触れたことはほとんどなかった。それだけにその一言は、胸に響いた。

 「もう一度やってみる」。半年のブランクを経て、奈津紀さんは再びハサミを手にした。朝から夕方まで授業を受け、夜は、休んだ間の学費をまかなうため居酒屋でアルバイトをした。睡眠時間は短くなったが、実習を休むことはなくなった。

 今、奈津紀さんは「自分は恵まれている」と感じている。母親代わりの家族、本当につらいときに寄り添ってくれる友がいるからだ。だからこそ、自分もみんなを幸せにできる美容師になりたい、と思える。

 「ママもきっと応援してくれるはず」と奈津紀さん。理美容師の国家試験は1年後だ。

スノーモンキー:地獄谷、温泉に入る猿 観光施設が連携、PR作戦 /長野

1月11日13時1分配信 毎日新聞

 ◇付近の美術館が手荷物預かり、現地到達が困難な人に写真展
 山ノ内町にある地獄谷野猿公苑(えん)などの観光施設が、温泉に入る同苑の野生猿を「スノーモンキー」としてPRするキャンペーンを展開中だ。地獄谷は山深い場所にあることから、近くの美術館が観光客の荷物を預かったり、歩行が困難な高齢者らのために猿の写真展を開いたりするなどの取り組みを始めた。
 公苑は1964年にオープン。野生のニホンザルが約200匹おり、露天風呂で温まるユーモラスな姿を見られる。雪をかぶりながら温泉に入る姿は海外でも「スノーモンキー」として知られている。入場者は年間約9万人。白馬や志賀高原に来た外国人のスキー客も多い。キャンペーンに参加するのは公苑の他、近くの「山ノ内町立志賀高原ロマン美術館」▽民俗資料館「豪雪の館」▽美術館脇の「レストランクリスタルテラス」。
 美術館は、公苑に向かう観光客の荷物を預かるサービスを始めた。地獄谷までは片道30分の山道を歩かなくてはならず、地元のガソリンスタンドや商店が厚意で預かっていたことから思い立った。近年、同町の志賀高原などで急増する欧米人のスキー客は1週間ほどの長期旅行が多く、大荷物を持って来てしまう人もいた。
 美術館では地獄谷まで行けない子供や高齢者などのために写真家ら10人が撮った公苑の猿の写真展も開く。荷物の預かりは美術館を見学すれば無料。3月末まで。キャンペーンを企画した美術館の岩本敏男館長は「美術館で暖をとりたい人にも、公苑に行きたい人にも猿の世界を知ってもらいたい」と話している。【竹内良和】

義賊になった大泥棒 石川五右衛門のナゾ

1月10日13時17分配信 産経新聞

 日本一有名な大泥棒、石川五右衛門。「釜ゆでの刑」で知られ、「五右衛門風呂」などの言葉にも名残があるなじみのキャラクターだが、その生涯はよくわかっていない。生まれた場所ですら、伊賀(三重県西部)や遠江浜松(浜松市)、丹後、河内など諸説ある。

 阿部猛著「盗賊の日本史」(同成社)によると、五右衛門は30~40人ほどの手下を持ち、伏見城下に立派な屋敷を構えていたという。手下にはやりや長刀(なぎなた)、弓、鉄砲を担がせて街道を往来させ、夜の京や伏見で盗みを働いた。同書では「戦国以来の在地土豪、小領主、あるいは蜂須賀小六のごとき野盗、野伏の頭領というべきものだった」と指摘されている。

 時の権力者、豊臣秀吉は、後の「五奉行」の1人、前田玄以に、五右衛門ら一味を捕まえるように命じたとされる。

 大泥棒五右衛門がどのように御用となったのか、そこにもまた諸説ある。「木村常陸介に頼まれて秀吉の暗殺を企て、秀吉の寝所に忍びこんだとき、宿直(とのい)の足を踏んで捕まった」とする説、「千鳥の香炉を盗んだところ、その香炉が鳴いたために捕まった」とするユーモラスな説もある。

 いずれにしても五右衛門は最後には捕らえられ、牢獄へとほうり込まれた。

   ◇ ◇

 五右衛門の墓がある「大雲院」(京都市東山区)の佐藤善穣住職によると、かつては河原町六条(同市下京区)のあたりに牢獄があり、捕らえられた五右衛門は、寺町通りを北へ上がって三条河原(同市中京区)の処刑場まで連れていかれたと伝えられている。

 当時の大雲院は、その中間点近くの四条寺町にあり、大雲院を開いた貞安上人は、処刑場に連れられていく五右衛門と会い、仏法をかけた。すると五右衛門は感泣して、自分を弔ってほしいと願い出たという。

 「盗賊の日本史」によると、寺町通りを引き回された希代の大泥棒の姿を一目見ようと、沿道には大勢の見物人が集まった。その群衆の中から突然、25歳ぐらいの若者が走り出てきて、五右衛門を引き連れて歩く縄取りの男を一刀のもとに切り捨て、こう叫んだという。

 「いかに五右衛門殿、日頃の芳情に報ゆる寸志は御覧の通りである」。男は人込みの中を駆け抜け、どこかへと姿を消した。

 三条河原に連れて来られた五右衛門は、油を張った釜に入れられ、煮殺しにされた。山科言経の日記「言経卿記」によると、盗人・スリ10人と子供1人は釜で煮られ、同類19人は磔(はりつけ)にされたという。一説では文禄3(1594)年のことで、五右衛門は37歳だった。

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 センセーショナルな処刑方法が話題を呼び、五右衛門は江戸期になると浄瑠璃や歌舞伎に義賊として登場し、広く民衆に人気を集めるようになる。歌舞伎「金門五山桐」で「絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千金とは小せえ、ちいせえ」と南禅寺の三門でミエを切る場面は、特に有名だ。

 処刑後の五右衛門につけられた戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」。寺や社会に貢献したり、信仰の厚い人に付けられたものだが、盗賊の五右衛門になぜそのような格式の高い戒名がつけられたのかは、よくわからないという。

 大雲院に五右衛門の墓が建てられたのは、処刑から35年ほどたってからのことだった。 (長谷川陽子)

      ◇

 石川五右衛門 豊臣政権期に京都で活動した盗賊で、正確な生没年は不詳で生い立ちなどは謎に包まれている。江戸期には歌舞伎や浄瑠璃で義賊として登場し、広く庶民に人気を得た。京都府内では、与謝野町の旧野田川町域に中世の摂関家渡領荘園・石川荘がかつてあり、石川氏が存在したことから出身地とする説もある。